大往生したけりゃ医療と関わるな

  ◎自分の死について考えると、生き方が変わる

「自分の死を考える集い」 延命の受け取り方は人によって違う
お棺に入って、人生の軌道修正をする 「死」を考えることは生き方のチェック
「死生観」に大きく影響する父の死 「自分の死を考える」為の具体的行動とは
”生前葬”を人生の節目の“生き直し”の儀式に 意思表示不能時の「事前指示書」は重要

  ●「自分の死を考える集い」

  現在、日本人はまるで「死」ということを考えなくなってしまっているようです。例えば、特別養護老人ホームに入居中の90才を超す親が死ぬことを、自分だって何時死ん

  でもおかしくない年齢に達している70才前後の子供達が、考えたこともないというのが普通です。こういう状況下ですから、周囲の何処を探しても、「何時までも生きて

  いる気の顔ばかり」で、”死の気配”等全く感じられません。本来、「生死一如」、生と死はセットのはずなのに、「命あっての物種」「死んで花実が咲くものか」「死んでも

  命があります様に」と死から切り離し、生のみが謳歌されてきました。その結果、すぐ自殺する、一度人を殺してみたかった、誰でもよかったなどと、「生」迄おかしくなった

  様な気がします。一度きりの人生、最後まできちんと生き切る為には、「死の助け」がいるのではないでしょうか。「死を視野に入れてこそ充実した「生」があるのでは

  ないかと考え、1996年「自分の死を考える集い」を発足させました。「集い」のキャッチフレーズは「今」を輝いて生きる為に「死を視野に」です。会場費と資料代に費用が

  かかるので参加費としてその都度¥1000です。会場では、何を喋るのも自由で、“掟”はただ1つ、「どんな意見にもあからさまな批判、反論はしない」ということだけです。

  ですから、遠慮なく医師批判、医療批判ガ飛び出しました。お蔭で、診療室では絶対に知りえない、貴重な患者、家族の本当の胸の内も教えてもらう等、大きい収穫が

  ありました。一年も続けば良しとしてたが、16年目に入り、地域も関西、関東と広範囲に及んでいるのは、「死」の話が存分に出来る場の提供だったからと思います。

  よその集団でいつもの調子で死がらみの話をすると、場が凍りつくと言います。「集い」の雰囲気がすこぶる明るいのは、暗くなりがちな「死」の話題でありながら、重点が

  「死に方」ではなく死ぬまでの「生き方」にあるせいだと思われます。全国区ではなくローカルのひっそりとした存在で良しと思っています。

  ●「貴方もお棺に入って、人生の軌道修正をしてみませんか」

  終末期医療や告知を含めた癌の話、脳死、臓器移植、尊厳死や安楽死、事前指示等の問題を議論にしているうちに、「集い」が()年目に入った時のことです。「自分

  の死」を具体的な行動を通して考えることが必要と感じ模擬葬儀を行いました。「棺桶」に入ることは、行動の具体化として申し分ない。そこで葬儀社のイベント・ホールを

  借りて行いました。お試し入棺では、入る入ると参加者が集まり、90才を超すと棺桶に良く馴染む様で、棺桶の蓋の開け閉めで葬儀社の社員が腰の痛みを訴えていました。

  また、救急車の乗車拒否の実演を同参加者の間でも行った。例会の最中に突然意識を失って椅子から床に転がり落ちた患者と、駆け付けた救急隊と救急車に乗れ

  乗らないの押し問答の末、追い返してしまいました。例え救急車を呼んでも、本人が頑強に拒否すれば、無理に連れてゆくことが出来ないのだということを学びました。

  救急車に乗ることは、延命措置も含めて現在の医療でできることは何でもしてほしいという、無言の意思表示なのです。ですから、それを覚悟の上で、乗らなくては

  なりません。たとえ呼んだ時に意識不明でも、到着した時点で意識が戻り、意思表示可能なら、断ってもいいわけです。もし呼ばずにあの場面で事切れていたら、

  「検死」で警察が介入してきます。たとえ「事前指示」の書面が存在したとしても、現在の日本では法的効力がありません。とすると、あの場面では、救急車を呼ぶというのが

  世間常識です。それを怠って亡くなったりすれば、「保護責任者遺棄致死」の罪で問われるかもしれません。