大往生したけりゃ医療と関わるな

  医者の序列は医者間ではないが、世間にはあるのです。即ち、大学病院の医者が頂点で、旧国立病院や日赤、済生会、県立、私立等の税立病院と続き、次が民間の

  大病院、中小病院の医者で、1番下が町医者と言われる開業医です。老人ホームの医者は更にその下にランクされます。ですから、市立病院の部長であっても、開業

  した途端に最下位の町医者に転落するわけです。世間では、家族や知り合いが開業医や小さな病院で診てもらっていて、経過がはかばかしくない時に、「駄目、そんな

  小さいところにかかっていては、もっと大きなところへ行かなくちゃ」という声を聞きます。我が国には医者個人の情報がなく、その実力のほどが素人にはわかりません。

  そこで、病院の序列の上の方の医者が、評価が高いということになるのでしょう。一般に。病院志向、専門医志向が高いので、老人ホームの入居者の容態に異変が

  あれば、ホームの配置医師がいるのに、家族から直ぐ病院受診という要望が出されます。ですから、配置医師の出番は、病院が見放した後なのです。老人ホームでは

  点滴注射も、酸素吸入も一切しない「自然死」が多くなります。病院では、最後まで何かと処置をしなければならないところですから、「自然死」はあり得ません。在宅に

  おける死も、普通は病院医療を引き継ぐので、殆ど「自然死」はないと言っていいでしょう。また、医者の方も、何もしないことには耐えられないのでしょう。しかし、それは

  穏やかに死ぬのを邪魔する行為なのです。ですから、殆どの医者は「自然死」を知りません。人間が自然に死んでいく姿を、見たことがないのです。「死」という自然の

  営みは本来、穏やかで安らかだったはずです。それを、医療が濃厚に関与することで、より悲惨で、より非人間的なものに変貌させてしまったのです。癌でさえも、何の

  手出しもしなければ全く痛まず、穏やかに死んでいきます。「手遅れの幸せ」を満喫する為には、「癌検診」や「人間ドック」などは受けてはいけません。病院通いの年寄り

  が多いのは、医者が「健やかに老いなければいけない」と脅し続けたせいもあり、年寄りに対する「若さ」や「健康」の重圧が高い様です。健康食品やサプリメントの売れ

  行きがそれを物語っています。本来、年寄りは、どこか具合が悪いのが正常なのです。不具合の殆どは老化がらみですから、医者にかかって薬を飲んだところで、すっかり

  よくなる訳はありません。昔の年寄りの様に、年を取ればこんなものと諦めることが必要なのです。ところが、「年のせい」を認めようとせず、「老い」を「病」にすり替えます。

  何故なら「老い」の先には「死」があるのみだが、病気なら回復が期待できるからです。人間は、生き物である以上、老いて死ぬという運命は免れません。最先端医療も

  再生医療も、所詮「老いて死ぬ」という枠内での話です。あまり医療に依存し過ぎず、老いには寄り添い、病には連れ添う、これが年寄りの楽に生きる王道だと思います。

  年寄りの最後の大事な役割は、できるだけ自然に「死んでみせる」ことです。しかし、「逝き方」は「生き方」なのです。今日の生き方が問われるわけです。今の生き方、

  周囲への関わり方、医療の利用の仕方、これらが、死の場面に反映されるということです。少し体調がすぐれなければ、すぐ「医者よ、薬よ、病院よ」と大騒ぎする人には、

  「自然死」は高望みだということになります。「認知症」という言葉も訳のわからない言葉で、介護現場で「認知が進んで」等と使われる場合があります。「認知が進む」と

  言えば回復に向かっているのではとも思えます?  

医療が穏やかな死を邪魔している 自分の死について考えると、生き方が変わる
「出来るだけ手を尽くす」は「出来る限り苦しめる」 「健康」には振り回されず、「死」には妙に(あらが)わず、
医療は限定利用を心がける
癌は完全放置すれば痛まない

  ◎医療が穏やかな死を邪魔している

医療に対する思い込み 解熱剤で熱を下げると、治りは遅れる
断言する医者はとんでもないハッタリ屋 鼻汁や咳を薬で抑えるのは誤り
本人に治せないものを、他人の医者が治せるはずがない 「自然死」の年寄りはごくわずか
ワクチンを打ってもインフルエンザにはかかる 介護の拷問を受けないと、死なせてもらえない